退職後の田舎暮らし

1.はじめに

私は、平成18年6月末日、62歳で出向先の(財)核物質管理センターを退職し、現役生活を終えた。この時点で、実家(高知県安芸郡芸西村)には母(当時90歳)が一人で暮らしていた。(父は昭和53年5月に65歳で死去した)母は未だ一人で生活できる状態ではあったが、遠からず介護が必要になるだろうことは、想像がつくことではあった。当時、私は茨城県水戸市に住んでいたが、妻や私の二人の姉(共に高知県在住)と話し合い、また試行錯誤も経験して得た結論は「私が1~2ケ月の間隔で水戸―高知を往来する」であった。田舎でも車が必要なことと安全を考慮して、東京―徳島間はフェリーを利用することにした。このため、片道が1泊2日の行程になった。それから2~3年して、母は「要介護4」の認定を受け、村にある病院に付属する老人ホームに入居することになった。

 余談だが、この病院の経営者の一人が私の小・中・高校の同級生で、一番の親友であったことから同病院の監査役を依頼され、またもう一人の同級生が当時村の教育長をしており、頼まれて教育委員会に付属する「教育研究協議会」の委員もすることとなった。そんなこんなで、私は住所を水戸市から芸西村に移すことになった。

2.田舎暮らし

(1)母の介護

老人ホームに入居した母に対して私が行った介護とは、毎朝7時ごろ施設に行って母の朝食に付き合い、食後は歯磨きやトイレの手助けをした。また食後に車椅子を押して施設周辺を散歩した。このように毎朝の約2時間を母と共に過ごした。勿論、この様な行為は施設の職員もして下さるが、私は敢えて自分でしたし、母もそれを望んでいたように感じた。また、年に2回程母の状態の良好な時に施設から一時帰宅の許可を得て、二人の姉も来てもらって、実家で4人で水入らずの昼食会を実施した。この時は、施設―実家間は私の車に母を乗せて往復するのだが、最短距離ではなく、母の要求に応じてあっちこっちと寄り道をしながら運転をした。母は黙したまま、真剣な表情で外の景色を見つめていたのが印象に残っている。

 母は平成29年3月5日、101歳6ケ月で亡くなったが、最期まで頭も確かで、記憶力も私より良いのではないか、と思ったほどだった。高校1年から62歳まで故郷を出ていた私にとって、母と共に過ごしたこれらの時間は思いで深いものとなった。

(2)高知新聞への投稿

ほとんどすべての新聞に「読者の声」欄がある。高知新聞は「声ひろば」という名前である。私は興味があっていつも目を通すが、退職して時間に余裕ができたこともあって、ある日自分も投稿してみようかと思い実行したところ、数日後の新聞でそれを発見した時は驚きもし、嬉しくもあった。これに気をよくして以後も投稿を続けた。ある時には私の意見に反論が掲載され、紙上で討論したこともあった。見知らぬ方からも感想の手紙をよくいただいたことは望外の喜びであった。結局、75歳までの約10年間で41件投稿し、内採用(掲載)は29件、不採用は12件であった。なお、75歳で投稿を終りにしたのは、後期高齢者が公の場で個人の意見を述べることを”良し”としなかったからである。以下に、採用された中から3件を紹介します。

                                                                                                                                        ①国益にかなうか中国への経済支援

3月5日付本紙によれば、2008年の中国の国防費は日本よりも多い6兆円強で、前年比は20年連続で2桁の伸びとのことである。しかも、これには兵器の開発費や外国からの兵器購入費などは含まれておらず、他国と同条件で計算すると国防費は国防費はこの2~3倍になり、実質米国に次いで世界第2位だという。国防は一国の主権に関することであり、他国がとやかく言えない一面を有する。中国が必要と判断して計上したものであろうから、それは問うまい。しかし理解に苦しむのは、このような国に日本はなぜ長年にわたって巨額の経済支援をするのか、ということである。これらの支援に、中国が辞退した戦後賠償的性格をあえて加味するにしても、累積支援は韓国や他の国々に実施したものを、すでに上回っている。

中国の著しい軍備増強は周辺諸国、とりわけ日本におおきな脅威を与えている現状での日本の支援は、間接的にこの脅威を自ら助長しているのではないか。国防費だけではない。中国は宇宙開発も強力に推進しており、また発展途上国絵の支援(ODA)も、我が国のそれを上回る。このような国に果たして経済支援が必要か、それは日本の国益にかなうことなのか、大きな疑問を禁じ得ない。(平成20年3月12日掲載)

②駅伝と日本人

今年もまた、正月三ケ日をテレビの前で過ごした。元日は実業団の、そして2日と3日は東京―箱根の大学駅伝である。今やこの二大レースのみならず、全国高校駅伝や都道府県対抗女子駅伝等も、日本の風物詩として定着しているように思う。知名度がさほど高くないレースも加えたら、日本では随分たくさんの駅伝が行われていることだろう。実際、本県でも各種のレースがあり、私の住む村でも毎年小さな駅伝が行われている。

“エキデン”“タスキ”は今や国際語になったとはいえ、外国で行われているとの報道はほとんど聞かない。かつて女子マラソンの草分けである英国のスミス女史が駅伝の面白さを知って、母国に定着させようとしたが成功しなかったし、ジョギング大国の米国でも駅伝のニュースは聞かない。

駅伝では一人の抜きんでた走者がいても、勝てるものではない。チーム全員が各々の力を結集して、はじめて勝利が得られる。このことが欧米の個人主義と違って、日本人の琴線に触れるのではないだろうか。

だが、駅伝で素晴らしいのは何と言っても観衆である。寒い中を長時間立ちつくし、すべての走者を等しく応援する。そしてビリが通過するまで決して帰らない。ここに私は日本人の優しさをみる。そして自分もその一人であることを、ひそかに誇りに思うのである。(平成26年1月6日掲載)

③「謝罪」に関する一考察

安倍首相による戦後70年談話が公表された。受ける人によって、あるいは国によって評価はさまざまであろうが、私には全体的にバランスがとれた格調高いものであるように思われる。以下、キーワードの一つであった「謝罪」に焦点を当てて考察してみたい。

 日本社会では、非を認めて謝ることは一種の美徳であり、相手もそれを受け入れて水に流す、少なくとも以後は表ざたにしない伝統・美学がある。しかしこれは国際社会ではまったく通用しないばかりか、むしろ相手側は“謝罪”を逆手にとってより一層攻勢を強めて来ることを覚悟しなければならない。中国、韓国の行動がそれを証明している。両国はこのカードを保持したいために、無礼にも談話作成前から執拗に、謝罪一辺倒だった村山談話の踏襲を要求した。

 一市井人の私に確たる情報が入るはずもないが、談話に対しては米国からも内々に大きな圧力があったのではないか、と推測している。米国が日本占領当時、総力を挙げて展開した“WGIP“(原爆投下や各都市への大空襲を正当化するために、米国が日本に仕掛けた心理戦)に見られるように、日本にいつまでも謝罪を求めることについては、米・中・韓の利害は一致するのである。

談話で、私にとって一番感動的であった「子や孫の世代まで、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」の一文は、これら3国の圧力に対する安倍首相の渾身の抵抗だったように思える。(平成27年8月27日掲載)

(3)小学/中学の同級生との交流

62歳で故郷に帰っても、小学/中学の同級生は予想していたよりも少なかった。多くは県外か、あるいは県内でも村からは遠いところに住んでいるようだった。鬼籍に入られた友も何名かいた。帰省してある程度時間がたち、周囲の状況が分かってきた頃2~3人の友に声をかけ、昼食や居酒屋に誘った。それが時間の経過と共に定期的になり人数も増えて年に3~4回集うようになった。途中、コロナ禍で休会になったこともあったが、やがてこのメンバーが中心となって、正式な同窓会を開催するようになった。今年は9月に開催し、21名が参加した。みんながあの当時に戻り、話と笑いが絶えなかった。最後は校歌を合唱し、再会を誓った。

今後とも長く続くことを願うばかりです。

3.むすび

   ふるさとは遠きにありて思ふもの

           そして悲しくうたふもの

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室生犀星はそう言ったが、私は可能な限りふるさとに帰り、気の合った人々に会い、山・川・海を眺めたい。

会員 松本精夫

(元動力炉・核燃料開発事業団)